外為に関する用語説明

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漱石が所属していた俳句雑誌『ホトトギス』では、小説も盛んになり、高浜虚子や伊藤左千夫らが作品を書いていた。こうした中で虚子に勧められて漱石も小説を書くことになった。それが1905年1月に発表した『吾輩は猫である』で、当初は最初に発表した第1回のみの、読み切り作品であった。しかもこの回は、漱石の許可を得た上で虚子の手が加えられており、他の回とは多少文章の雰囲気が異なる。またもともと漱石がつけた題名は『猫伝』(ねこでん)であったが、虚子の助言により『吾輩は猫である』とされた。だがこれが好評になり、虚子の勧めで翌年8月まで、全11回連載し、掲載誌『ホトトギス』は売り上げを大きく伸ばした(元々俳句雑誌であったが、有力な文芸雑誌の一つとなった)。 なお主人公「吾輩」のモデルになったのは夏目家に飼われていた野良猫である。実際、この猫には名前が無かったという。1908年9月13日に猫が死亡した際、漱石は親しい人達に猫の死亡通知を出した。また、猫の墓を立て、「この下に稲妻起る宵あらん」と安らかに眠ることを願った一句を添えた後、猫が亡くなる直前の様子を「猫の墓」(『永日小品』所収)という随筆に書き記している。 ちなみに『猫』が執筆された当時の漱石邸は現在は愛知県の野外博物館・明治村に移築されていて(旧所在:文京区千駄木)公開されている。東京都新宿区弁天町の夏目公園(漱石山房跡地)には「猫塚」があるが、後年復元したものだという。 作品研究 日露戦争前後の上級社会への諷刺を、苦沙弥先生や寒月などの滑稽な登場人物の中に織り込ませた、戯作風の作品である。スウィフトの『ガリヴァー旅行記』などに影響された描写力は出色で、他の追随を許さなかった。 長編として書くことを想定していなかったため、小説らしい筋書きはあまりなく、その点でローレンス・スターンの『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』の影響も指摘されている。また、猫が主人公という点でホフマンの『牡猫ムルの人生観』に影響を受けた可能性がある。『蚤の自叙伝』(19世紀前半ごろ書かれたとされる作者不明の官能小説)に至っては、蚤の視点で宿主の性生活をシニカルに描く手法や、漱石自身がつけた原題との類似(?)など、共通点が多く見出せる。 ⇒ en:The Autobiography of a Flea(蚤の自叙伝)参照。『ホトトギス』連載中の1906年5月、「新雑誌」に「牡猫ムル」の幽霊が現われたという設定の戯文(猫文士気焔録)が掲載され、その中で漱石の『猫』が皮肉られた(『トリストラム・シャンディ』と『牡猫ムルの人生観』については、『吾輩は猫である』本文でも言及されている)。 終盤(最終回)で、迷亭が苦沙弥らに「詐欺師の小説」を披露するが、これはロバート・バーの『放心家組合』のことである。この事実は、1971年、山田風太郎により指摘されるまで(漱石と「放心家組合」[1])、日本の文学者や推理小説研究家の、誰一人として気付かなかった。 古典落語のパロデイが幾つか見られる。例をあげると、強盗が入れられた次の朝、苦沙弥夫婦が警官に盗まれた物を聞かれる件は『「花色木綿(出来心)』の、寒月がバイオリンを買いに行く道筋を言いたてるのは『黄金餅』のパロデイである。迷亭が洋食屋を困らせる話にはちゃんと「落ち」までつけ一席の落語としている。漱石は三代目柳家小さんなどの落語を愛好したが、『猫』には落語の影響が最も強く見られる作品である。 第三話にて寒月君が講演の練習をする「首縊りの力学」は、実在する論文を摘要したものである。寺田寅彦の随筆夏目先生の追憶 に、彼がその論文を夏目漱石に紹介した経緯が書かれている。 デビュー作『先物取引 』から9ヵ月後、文芸誌『群像』1980年3月号に発表された。第83回芥川賞候補作。同年6月に単行本化された。「僕と鼠もの」シリーズの第二作。Pinball, 1973のタイトルで英訳版も発行されている。タイトルは大江健三郎の『万延元年のフットボール』のパロディである。 1973年9月に始まり、11月に終わる、「僕」の話であるとともに友人の「鼠」の話で、ピンボールについての小説という形をとる。第1章から第25章まで、「僕」の物語の章と鼠の物語の章に分かれ、二つの物語系列がパラレル(平行)に進行していく。 村上は当初、小説をリアリズムで書こうとしたが挫折し、「鼠」の章のみリアリズムで書いたと述べている[1]。 「僕」の物語 冒頭、1969年の大学生活が回想され、死んだ投資信託 の直子について語られる。そして1973年、大学を卒業し翻訳で生計を立てている「僕」は、いつのまにか部屋に住みついた双子の女の子と共同生活をしている。「僕」のアパートの部屋の電話の配電盤が新しいものと取り替えられるが、電話局の男は旧式の配電盤を部屋に忘れていった。「僕」と双子は旧式の配電盤を山中の貯水池に沈め、お葬式をする。ある日、「僕」の心をピンボールが捉え、1970年のジェイズ・バーで鼠が好んでプレイし、その後「僕」も夢中になったスリーフリッパーのピンボール台「スペースシップ」を捜し始める。ピンボール・マニアのスペイン語講師と出会った「FX 」は、彼に連れられて訪れた倉庫で「スペースシップ」と再会を果たす。しかし「僕」はゲームをすることなく「スペースシップ」と言葉を交わしただけで倉庫を出ていく。そして悩まされていたものから解放された「僕」の部屋から双子の女の子が去っていく。 「鼠」の物語 鼠は1970年に大学を辞めて以来、故郷の街のジェイズ・バーに通ってバーテンのジェイを相手に現実感のない日々を送っている。1973年9月不要物売買コーナーを通して女と知り合うが、その交際にも苦しむ。やがて自分から女に会うのはやめ、ジェイに別れを告げて街を出る。 小説(しょうせつ)とは、文学の一形式である。 小説とは、散文で作成された虚構の物語として定義される。 内容では、随想や批評、伝記、史書と対立するものであり、形式としては詩と対立するものである。 なお、英語でのnovelはスペイン語でのnovelaや、フランス語の nouvelleと同語源であり、もともとラテン語で「新しい話」を意味する。 小説・近代的小説の定義 小説という言葉は、君主が国家や政治に対する志を書いた大説や、君主の命などを受けて編纂された国史に分類される伝統的な物語や説話に対して、個人が持つ哲学的概念や人生観などの主張を、一般大衆により具体的に分かりやすく表現して示す、日経225 の言説という意味を持たされて、坪内逍遙らによって作られて定着していったものとも言われている。 以前は、小説と物語の間には明確な区分があるとされてきた。 すなわち、話の展開に内容から導かれる必然性があるものが小説であり、内容とはかかわりなく偶然のつながりによって話を進めてゆくのが物語という見方である。 言い換えると小説は「虚構の連続性と因果律のある話の構造」を持たねばならないことが条件とされた。 さらに発展して「話の展開と主人公の性格に必然的なかかわりがあるのが小説。そうでないのが物語」とも言われた。 19世紀以降に小説の主題概念が強くなるために「小説」は主題、主人公の造形、話の展開の結びつきが密接であることを要求されてきた。 ただしこのような観念は、20世紀に入って『贋金造り』(アンドレ・ジッド)のような小説が登場するに至って、崩壊したといえよう。反小説なる小説まで登場した現代では、もはや何を以て小説とするかは一概に決めることはできない。 このように近代文学観の呪縛から離れてみれば、古代日本文学の『源氏物語』(紫式部)は、近代の心理小説に匹敵する描写がみられることが指摘されているし、古代ギリシャ文学の『ダフニスとクロエ』(ロンゴス)なども、「外為 」的要素を持った最古の例のひとつといえよう。 ヨーロッパの小説 ヨーロッパでは17世紀まで「小説」は、「小話」と長編の散文との間の、短い物語のジャンルとして考えられていた(現在の短編小説にあたる)。セルバンテスの『模範小説集』は短篇の物語集であるが、それまでの散文形式にとらわれない、「新しい物語叙述」を創り出した。 セルバンテスの書いた『ドン・キホーテ』(1605-1615年)は作者の世界観を表現しながら、登場人物たちの成長や葛藤、心理の変化など、「個」に主眼においた近代的な作品であった。よって彼をもって「近代小説の祖」とする人もいる。また同様の理由で、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』(1719年)も「近代小説の祖」といわれる。 近代小説の起源は、フランスで18世紀に流行した書簡体小説(手紙、あるいは手紙のやりとりという体裁の文学)から始まる。近代小説の発展は、18世紀以降のイギリス、フランスなどでの中産階級の勃興と切り離すことができないとされている。すなわち、識字率の高い、比較的裕福な人たちが読者層となり、その独特のニーズに合わせて発展したと考えられている。 またイギリスで起こった産業革命により印刷術が発達し、さらに言論、出版の自由が社会的に保障されるようになってから次第に中産階級、労働者階級にも浸透していくことになる。