外為に関する用語説明
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金融経済月報
『?東綺譚』(ぼくとうきだん[1])は永井荷風の小説。私娼窟・玉の井を舞台に、小説家・大江匡と娼婦・お雪との出会いと別れを、季節の移り変わりとともに美しくも哀れ深く描いている。荷風の日記『断腸亭日乗』には荷風の玉の井通いの様子が書かれており、主人公大江は作者の分身と考えられる。荷風の小説中、最高傑作ともされ、1960年・1992年に映画化された。
成立
『断腸亭日乗』によれば、1936年3月から向島・玉の井にある銘酒屋街(私娼窟)の探訪が始まり、4月22日に随筆『寺じまの記』が書かれた。舞台となった玉の井は、1918、19年(大正7、8年)から関東大震災の後にかけて、浅草にあった銘酒屋街(私娼窟)が移転してきたもので、後の東武伊勢崎線東向島駅(旧名・玉ノ井駅)付近である。
荷風がこの界隈にどんどん興味を持ちだし、日記には精密な地図さえ描かれる。9月7日にはヒロインのモデルとおぼしき女性の出会いが記され、しばらくこの女のもとに通った。9月20日に「この町を背景となす小説の腹案漸く成るを得たり。」との記事があり、翌21日の起草後も、荷風は連日のように玉の井に通った。脱稿は10月25日。作者自身が舞台となった玉の井にかなりの思い入れを持っていることが判る。11月に「作後贅言」を脱稿。
翌1937年(昭和12年)に私家版として発表(荷風が撮影した玉の井のスナップ写真が掲載されている)。同年、木村荘八の挿絵とともに東京朝日新聞に連載された後、岩波書店から単行本が刊行された。
登場人物
大江匡:50代後半の小説家(文中では「わたくし」)。カフェー通いを新聞・雑誌で攻撃されたことがあり新聞記者を憎んでいる。水商売の女を家庭に入れようとして失敗したことがある。小説の想を練るため、また隣家のラジオの音がうるさいため玉の井通いを始める。
お雪:玉の井の私娼、26歳。以前は宇都宮で芸者をしていた。純朴な性質の女。
あらすじ
小説家・大江匡は小説『失踪』の腹案を練る。51歳で退職した英語教員が退職金を持って失踪し、カフェー勤めの女の元に身を寄せる、という筋書きで、主人公が身を隠す場所を向島あたりに設定し、6月末のある夕方、
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玉の井付近を散策する。急に大粒の雨が降り出し、大江が傘を広げると、浴衣姿の女が傘に入ってきた。大江は女(お雪)に誘われるまま、部屋に上がる。
大江はお雪のもとに度々通い、なじみを重ねる。お雪は大江のことを秘密出版に関わる男と誤解しているらしい。ある日、借金がなくなったら「おかみさん」にしてほしいとお雪は言い出す。お雪を幸福な家庭の人にするのは自分ではない、と大江は考える。9月の末、お雪が入院したことを聞く。10月になると大江が玉の井通いをすることもなくなった。
文末の「作後贅言」の章は(上記のストーリーとは関係なく)、荷風の亡友の思い出とともに世相の変遷、銀座のカフェー風俗などが綴られている。
挿画
木村荘八による詩情あふれた挿絵も、この作品の評価を高めた一因、という意見が多い。木村荘八は、挿絵の担当が決まると連日のように玉の井界隈に通い、荷風の注文通りの作品を仕上げた。荷風の文と荘八の絵のコンビネーションを「
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義太夫における太夫と三味線引き」に例える意見もある。岩波文庫本には挿絵が全て復刻されている。
その他
「?」は林述斎の造字したものを永井荷風が見出して使ったもので、隅田川(墨田川)を指す。
作品中に、前年廃止された京成電気軌道白髭線玉ノ井駅の記述がある。挿絵や私家版の写真にも廃線跡が見られ、鉄道史上の資料にもなっている。
『火垂るの墓』(ほたるのはか)とは野坂昭如の小説。1945年の兵庫県神戸市近郊を舞台とし、親を亡くした幼い兄妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わず悲劇的な死を迎えていく姿を描いた。
野坂独特の饒舌かつ粘っこくて緻密な
先物取引
文体に加え、戦時下での妹との死別という実体験や情念も盛り込まれ、独特の世界観と感慨を読者に与えてくれる。文藝春秋『オール讀物』昭和42年10月号に掲載され、「アメリカひじき」と共に、第58回直木賞(昭和42年下半期)を受賞する。1968年に『アメリカひじき・火垂るの墓』として文藝春秋より単行本化。現在も新潮社より文庫本が出ている。 他「滝田ゆう」により漫画化されており、宙出版「怨歌劇場」に収録されている。
本項では、上記の小説を原作とした同名の映像作品についても扱う。
1945年9月21日、清太は省線三ノ宮駅構内で衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりに蛍がひとしきり飛び交い、やがて静まる。
太平洋戦争末期、兵庫県御影町[1](現在の神戸市東灘区)に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は6月5日の空襲で母も家も失い、父の従兄弟の未亡人である西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。
やがて血の繋がりのない節子と清太を、小母は邪険に扱うようになる。二人の兄妹は家を出ることを決心し、近くの池[2]のほとりにある防空壕[3]の中で暮らし始めるが、配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていく。清太は、畑から野菜を盗んだり、空襲で無人の人家から物を盗んだりしながら生き延びる。やがて日本が降伏し戦争は終わった。敗戦を知った清太は、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受ける。
節子の状態はさらに悪化し、
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清太は銀行から貯金を下ろして食料の調達に走るが既に手遅れで、幼い妹は終戦の7日後に短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を後にして去っていくが、彼もまた栄養失調に冒されており、身寄りもなく駅に寝起きする戦災孤児の一人として死を待つのみであった。
作品の背景
野坂昭如の実体験が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含む小説である。6月5日の神戸大空襲により自宅や家族を失ったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出などはすべて作者の経験に基づくものである。また野坂は戦中から戦後にかけて二人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかしながら西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂はその家の美しい娘に夢中であり、幼い妹(物語とは異なりまだ1歳で、後に疎開先の福井県で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い
不動産
初恋に心をときめかせていたという。また食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実もない[4]。
野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒をみなくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたと認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという。西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している[5]。
こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹へのせめてもの贖罪と鎮魂の思いを込めてこの作品を著したのである。 その意味では二人を冷たく突き放した親戚の小母もまた、自分が生き抜くことだけで精一杯で妹を死なせてしまったという野坂自身の悔恨が投影された姿であると言えるのかもしれない。
同名のアニメ映画『火垂るの墓』(英題:Grave of the Fireflies)が、新潮社の製作で1988年4月16日から東宝系で公開された。制作はスタジオジブリ、監督・脚本は高畑勲。ストーリーは原作をほぼ忠実になぞっているが、後半部分の演出、特に節子の死のシーンの描写などはアニメオリジナルである[6]。挿入歌としてアメリータ・ガリ・クルチの「埴生の宿(原題:Home,Sweet Home)」が使われた。映画『火垂るの墓』は、1988年の公開時、宮崎駿監督作品『となりのトトロ』と同時上映されている。先に企画された『となりのトトロ』は、当初、60分程度の中編映画として企画されており、単独での全国公開は難しかった[7]。そこで同時上映作品として高畑勲監督作品『火垂るの墓』の企画が決定したという経緯が伝えられている。最終的に、両作とも上映時間は90分近くなり、長編2本体制で公開された。アニメ映画界の二大巨頭の代表作、しかも作風も物語も印象も全く相反する内容の作品を一緒に観ることができたが、当時としてみれば地味な素材であった上、東宝宣伝部が消極的だったことや[8]、高畑・宮崎両監督の一般的な知名度も現在ほどではなく、公開日が春休み後の中途半端な時期でもあったため、配給収入は5.9億円と伸び悩んだ。評論家からは好評で『キネマ旬報』誌の日本映画ベストテンでは6位に食い込んでいる。
両映画の制作はスタジオジブリで同時に進行した。宮崎は先に自らの監督した『天空の城ラピュタ』を引き続き確保し、高畑はスタッフはゼロの状態からスタッフを確保することになった。東映動画でも長編作品を2本同時進行したことはなかったといい、高畑・宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮することになった[9]。特に揉めたのが作画監督の近藤喜文の処遇であった。
徳間書店社長・徳間康快の要請を受け、野坂の原作小説を文庫として販売している新潮社が『火垂るの墓』の出資・製作となっている。新潮社がメディアミックスで映像製作に携わる初めてのケースとなった。こうした経緯もあって、ビデオやLDは徳間系列ではないパイオニアから発売され、その後リリースされたDVDも、ジブリ作品としては例外的にワーナーの扱いとなっていた(新潮社との契約が満了した2008年8月以降はブエナビスタから再発されている)。
当初は両作とも60分であったが、高畑の『火垂るの墓』の時間が長くなると、対抗するように宮崎の『となりのトトロ』の時間も延び[10]、結果的に長編2本の同時進行となった。質を落としたくない高畑勲は公開の延期を申し出たが、1988年4月の公開時点で清太が野菜泥棒をして捕まる場面など未完成のシーンが残ったままとなり、その部分は色の付かない白味・線撮りの状態で上映された。公開後も制作を続け、後に差し替えられている。
わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑勲はいったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰することになる